Japanese Statement
SAMURAI TECHNIQUES (SMT48): Art Statement 2021–2025
48 Bodies, Faces in ≤3 Pixels, and Infinite Questions
— Full Statement (Japanese) —
SAMURAI TECHNIQUES (SMT48)
48の身体、最大3ピクセルの顔、無限の問い
序章:数字が語る日本の矛盾
2021年、私はドット絵でSEX、SAMURAI、春画を同時に表現する作品を作り始めた。なぜそれを作ったのか、当時の自分にも明確な理由は分からなかった。ただ、この組み合わせに強烈に惹かれ、親指一本でスマホの画面に向かい続けた。
4年の時を経て、今、振り返ってみれば、この作品は時代の無意識を映し出していたのかもしれない。
日本のアダルトビデオ(AV)市場は、最新の市場調査(SDKI Analytics, 2024年)によれば、関連する成人向け映像市場の規模は約61億米ドル(約9,000億円)に達している。このような数字が示すように、日本のアダルトコンテンツ産業は世界的に大きな存在感を持つと言われる。
しかし同時に、日本家族計画協会の調査では、既婚者の47.2%が1ヶ月以上性交渉がない「セックスレス」状態(2020年)。最新版の2024年の調査で、この割合は約64.2%まで大幅に上昇。18-34歳の未婚男性の約70%が交際相手なし(2021年国立社会保障・人口問題研究所)。
これら数字の乖離は何を意味するのか。仮想の過剰と現実の欠如。デジタルな充足と身体的な飢餓。もしかすると、私がSMT48を作らざるを得なかった衝動は、この矛盾への無意識的な応答だったのかもしれない。
江戸時代を振り返れば、我々の祖先は春画という形で性を芸術に昇華させた。それは単なるポルノグラフィーではなく、笑いと驚きと美を併せ持つ総合芸術だった。喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川国芳―日本美術史に名を残す巨匠たちが、真剣に、時にユーモラスに、性を描いた。
そして四十八手。この体位の体系化は、インドのカーマスートラ、中国の房中術と並ぶ、世界でも稀な性の「術」の文化である。興味深いことに、日本では相撲にも「四十八手」があり、江戸時代に同時期に体系化された。
相撲の四十八手が力と技の型を定めたように、性愛の四十八手は愛の型を定めた。日本文化は、茶道、華道、武道のように身体的営みを「道」として精神修養へと昇華させる一方で、相撲の決まり手や性愛の四十八手のような「術」としての技の体系も同時に発展させた。
「道」が終わりなき精神の修練であるのに対し、「術」は具体的な技の集積である。この技の多くは「型」として体系化され、伝承される。春画は性を芸術として昇華し、四十八手は性を技術として体系化した。この二重性—芸術的昇華と技術的体系化—こそが日本文化の豊かさである。
しかし明治維新以降から現代日本において、この創造的な性の文化はどこへ消えたのか。モザイクで隠され、恥ずべきものとして地下に潜り、あるいは過度に商品化されて本来の生命力を失ってしまった。
第一章:ドット絵という啓示
制作の始まりは、技法の選択から始まった。ドット絵―この表現形式を選んだ瞬間、SEX、SAMURAI、春画のイメージが同時に降りてきた。
なぜドット絵だったのか。それは現代のデジタル文化における最小単位であり、同時に1980年代のファミコン世代が持つノスタルジーの記号でもある。最も新しくて最も懐かしい表現形式。この両義性が、伝統と革新を結ぶ橋となると直感した。
2021年、世界ではCryptoPunksが数億円で取引されていた。10,000体の24×24ピクセルの顔が、アート市場を震撼させていた。しかし私の関心は、投機的価値ではなく、この極限まで簡略化された表現が持つ根源的な力にあった。最小限のピクセルで人間を表現する―この挑戦を、私は性愛という最も人間的な営みで試みたかった。
そして日本人として、性愛を世界に向けて表現する方法を考えた時、春画とSAMURAIが浮かんだ。これらは日本独自でありながら、すでに世界が認識している文化的記号だ。オリエンタリズムに陥ることなく、かといって無国籍でもない。日本からの提案として、誇りを持って提示できる要素だった。
実際に制作を始めて驚いたのは、どんなに複雑な体位でも、32×32の枠内で再現可能だったことだ。人間の身体の可塑性、ピクセルの表現力。制約があるからこそ生まれる創造性。これは俳句や短歌の精神に通じる。最小限の要素で最大限を表現する日本的美学の再発見だった。
第二章:スマホという画布
この作品は、スマホで制作された。8bit Painterというアプリ、親指一本、小さな画面。制作環境の特異性は、作品の本質と深く結びついている。PCの大画面ではなく、手のひらの中の小さな画面。マウスやペンタブレットではなく、親指という最も原始的なツール。この選択は偶然ではなく、必然だった。
疲れ果てて仮眠した後、その体勢のままでも制作できた。ベッドに横たわり、スマホを顔に近づけ、親指でピクセルを置いていく。この親密な距離感、身体的な直接性。それは、性行為そのものの親密さと呼応する。
輪郭の描画、目の配置、口の追加、そして塗りつぶし。特に輪郭は無駄を省くために、何度も目を休めて見直し、かなりやり直した。この反復は、数珠を繰る僧侶の祈りにも似た瞑想的行為だった。一つ一つのピクセルに意識を集中させ、全体の形を想像しながら、部分を構築していく。デジタル時代の曼荼羅制作とも言える。
スマホ制作は、現代の創作の民主化も象徴する。高価な機材も、専門的な環境も不要。誰もが持つデバイスで、どこでも制作可能。電車の中、カフェ、深夜のベッド。日常と創作の境界が溶解する。
約800時間の制作時間。この膨大な時間は、AIが一瞬で生成する画像には決して宿らない、人間的な時間と労働の結晶である。目とスクリーンの距離は約30センチ。この親密な距離は、読書や裁縫に近い。しかし、対象は紙や布ではなく、発光するピクセル。制作中の姿勢も特異だ。ベッドに横たわり、スマホを顔の上に掲げる。重力に逆らってデバイスを支え続ける腕の疲労も、作品の一部である。
第三章:32×32の宇宙
32×32ピクセル。1024個の正方形。この極限の制約の中で48の体位を表現する。この制約は単なる技術的制限ではない。俳句が五七五の制約の中で宇宙を表現するように、能が限られた所作で人間の情念を表すように、私は1024個のピクセルで人間の欲望の全てを表現しようとした。
制作を始めてすぐに直面したのは、リアリズムの不可能性だった。32×32では、解剖学的正確さを追求することはできない。手足の指どころか、顔の表情すら描けない。この限界が、かえって本質を浮かび上がらせた。
性交とは何か。それは二つの身体の絡み合いである。その本質を表現するために必要な最小限の要素は何か。私はこの問いに対して、「形」と「関係」という答えに辿り着いた。個々の身体の詳細ではなく、二つの身体が作り出す全体の形。その形が生み出す緊張と調和。
興味深いことに、ピクセルという概念自体が、1980年代のデジタル革命以降にしか理解できない現代固有の視覚言語である。江戸時代の人々が春画を見たとしても、現代の我々がSMT48を見るようには見えない。この時代限定的な表現形式こそが、作品を明確に21世紀の現代アートとして位置づける。ピクセルアートは、特定の時代に生きる我々だけが共有できる美学なのだ。
形と関係に加えて、色彩は最小限を目指した。当初、数色のみで表現する意図があった。しかし伝統的な四十八手という「型」は、そのような純粋主義を許さなかった。
基本色は6色―黒の輪郭、春画の伝統的な肌色(男性はやや濃い暖色、女性はやや明るい暖色)、赤の口、桜色の乳首、侍の水色の月代。
そして伝統的な四十八手の一部が要求する小道具。碁盤、縄。これらを表現するため、追加の色—こげ茶色、黄土色—を使用した。色彩的純粋性より、型の完全性を優先した。
この選択は妥協ではない。むしろ、作品の本質を示す。SMT48は、ミニマリズムのための実験ではなく、四十八手という伝統への敬意である。
第四章:最大3ピクセルの哲学
全ての顔を最大3ピクセルで表現する。この決断は、作品の核心部分である。目が2ピクセル、口が1ピクセル。時には2ピクセル、時には1ピクセルのみ。この極限の簡略化は、能面の現代的解釈とも言える。能面は無表情でありながら、角度によって喜怒哀楽を表現する。SMT48の顔も、文脈によって様々な感情を想起させる。
激しく絡み合う身体と最小限の顔のコントラスト。このギャップが生み出す効果は予想以上だった。それは表情の不在ではなく、あらゆる表情の可能性を内包する空白である。見る者は、そこに自らの感情を投影する。快楽、恍惚、静寂、超越。
この簡略化は、デジタル時代のコミュニケーションの本質でもある。顔文字「:)」、絵文字「😊」、スタンプ。我々は日常的に、感情を記号に還元している。SMT48の顔は、この記号化を極限まで推し進めた結果である。
さらに興味深いのは、顔が完全に不在となる体位の存在である。激しく絡み合う身体の中に、顔が埋没し、ピクセルとして一切表現されない瞬間。これは顔の極限的な簡略化を超えて、顔の消失という究極の匿名性に到達する。
顔の不在は、むしろ最も親密な瞬間の表現かもしれない。顔が見えないほど身体が近づき、融合する。個が消えて、純粋な「関係」だけが残る。これは日本の「無」の美学―存在しないことで存在を強調する―の体現でもある。
0ピクセル、1ピクセル、2ピクセル、3ピクセル。この段階的な顔の出現と消失は、親密さの度合いを示すグラデーションとなる。最も激しい結合の瞬間に顔が消えることは、エクスタシーにおける自我の消失を視覚化している。
第五章:三つの美学―はみ出す、調和する、凝縮する
制作当時は無意識的な衝動に従って作品を生み出したが、4年の時を経て振り返ると、そこには時代の無意識への応答があったことが明確になった。そして2025年、現代アートとして提示するにあたり、これらの要素を意識的に再構築し、戦略的な意味付けを行った。
はみ出す身体の美学
32×32の枠を突き破ろうとする身体。これは生命力の過剰、エネルギーの奔流を表す。枠に収まりきらない情熱は、日本美術における「破調の美」に通じる。完璧な形式を破ることで生まれる動的な美。
調和する身体の美学
枠の中に完璧に収まる身体。これは日本庭園の設計思想―限られた空間に宇宙を表現する技法を体現している。すべての要素が必然的な位置にあり、一つのピクセルも無駄がない。これは「型の完成」を示す。
凝縮する身体の美学
枠の中央に凝縮される身体と、それを包む余白。これは水墨画や茶室の美学―「間」の文化の体現である。描かれていない部分が、描かれた部分と同等の意味を持つ。ミニマリズムの極致であり、「引き算の美学」の実践。余白は空虚ではなく、可能性の空間である。
これらのパターンは計画されたものではない。48体を作る過程で自然に現れた分類である。日本人である私の無意識に刻まれた美意識が、デジタルという新しい表現媒体の中で、自然に立ち現れたのかもしれない。それは日本美術が持つ三つの方向性―動的なもの、静的なもの、空的なもの―の無意識的な表出だった。
第六章:SAMURAI TECHNIQUESという名前の必然性
侍—SAMURAI—は武士道の体現者である。
武士道は「死ぬことと見つけたり」という葉隠の言葉に象徴されるが、これは単なる死への執着ではなく、死を見据えることで生を研ぎ澄ます逆説的な生の哲学でもある。同様に、春画は性を通じて生を謳歌しながら、「一期一会」的な瞬間の儚さも内包している。
この二重性—死の覚悟と生の賛美—が作品に独特の緊張感をもたらす。
「TECHNIQUES」という語の選択も意図的である。四十八手を「48 positions」や「48 ways」ではなく「TECHNIQUES」としたのは、これが単なる体位のカタログではなく、洗練された「術」だからだ。
TECHNIQUEはギリシャ語の「テクネー」に由来し、芸術と技術が未分化だった時代の「制作の知」を意味する。陶芸における轆轤の技、能における型の体系のように、これは日本語の「術」—武術、忍術、房中術—が持つ実践的知識と精神性の統合に通じる。単なる方法論ではなく、身体と精神を通じて体得される生きた知恵である。
四十八手という「術」の体系は、武術の「型」と同じ構造を持つ。剣術の型、柔術の手、そして性の四十八手。すべては「術」として体系化され、修練と洗練の対象となる。身体の可能性を極限まで探求し、その中に美と調和を見出す精神は共通している。
歴史を紐解けば、武士と春画の関係は矛盾ではない。江戸時代、春画は武士階級にも愛好された。それは単なる性的娯楽ではなく、「笑い絵」として緊張を解きほぐし、戦場から無事に帰る願いを込めた縁起物でもあった。武士にとって春画は、死と隣り合わせの日常における、生への讃歌だった。
SAMURAIとTECHNIQUES—この二語が結合する時、そこには日本文化の深層が立ち現れる。死を見つめる者が、生の極致を芸術として昇華する。戦場で明日なき命と向き合った侍が、帰還して生の喜びを確認する。この生と死の往還こそが、人間の本質的な在り方かもしれない。
SAMURAI TECHNIQUES—この名は、1024個のピクセルという現代の最小単位の中に、日本文化が培ってきた身体知の集大成を封じ込める。それは死と生、瞬間と永遠、個と型、これらすべての矛盾を矛盾のまま包含する器である。
第七章:浮世絵から続く略画の系譜
SMT48の美学的源流を辿れば、まず浮世絵という革命的な大衆芸術に行き着く。浮世絵は木版画という複製技術により、一つの版木から同じ絵を何枚も刷ることができた。この技術的特性が、芸術を特権階級から解放し、庶民へと広く開かれた存在にした。
その結果、西洋美術の伝統的所有構造と対照的な文化的軌跡を描き、町人文化として日本独自の「美術の民主化」が実現した。デジタルアートもまた、本質的に複製可能なメディアである。一度作られたデータは、理論上無限にコピーできる。この共通性は偶然ではない。両者とも、技術によって芸術の民主化を可能にする潜在力を持っている。
しかしSMT48が浮世絵から最も強く継承しているのは、むしろその造形的な特質である。浮世絵の特徴的な表現は、明確な輪郭線で形を定義し、限られた色版を重ねて世界を構築する手法である。遠近法による奥行きではなく、平面的な構成を基本とし、線と面の関係性で画面を成立させる。
SMT48もまた、黒いピクセルの輪郭線で身体を定義し、その内側を単色で塗る。立体的な陰影表現を排し、純粋に平面的な構成に徹する。浮世絵が版木という物理的制約を独自の美学に転化させたように、私は32×32という制約を、表現の本質として受け入れた。
そして浮世絵から派生した葛飾北斎の『北斎漫画』は、この線の表現力を極限まで追求した。北斎漫画は、人物、動物、風景、妖怪まで、森羅万象を簡潔な線で捉えた略画の集大成である。複雑な現実を、最小限の線に還元する。この「省略の美学」は、日本美術の核心にある。
興味深いことに、日本語そのものが同じ道を辿った。複雑な漢字から、流麗なひらがなへ。「安」から「あ」へ、「以」から「い」へ。この簡略化は単なる便宜ではなく、新たな表現の可能性を生んだ。ひらがなは、漢字では表現できない微妙な感情の襞を表現する。
SMT48の32×32ピクセルは、この略画の伝統の21世紀的展開である。北斎が筆の一筆で人物の動きを捉えたように、私は一つのピクセルで身体の本質を捉えようとした。最大3ピクセルの顔は、北斎が点と線だけで表現した人物の表情に通じる。
略すことは、失うことではない。むしろ、本質を浮かび上がらせる積極的な創造行為である。1024個のピクセルは、無限の細部を削ぎ落とした後に残る、純粋な形の結晶である。
第八章:NFTから現代アートへ―投機から表現への回帰
SMT48は、NFTブームの中で誕生した。結果的にここでの出会いは宝であるが、当時の私の関心は投機やコミュニティ形成ではなく、純粋にデジタルアートとしての可能性にあった。
多くのNFTプロジェクトが、ホワイトリスト、ユーティリティ、ロードマップという仕組みで価値を創出しようとした。しかし私は、視覚的な力だけで勝負したかった。48の身体と最大3ピクセルの顔が持つ、純粋な造形的インパクト。
2025年、私は決断した。この作品を現代アートの文脈で提示する。なぜなら、SMT48が持つ批評性、歴史性、普遍性は、単なるデジタルアセットを超えて、美術史的な評価に値すると確信したからだ。
NFTという技術は、作品に新たな可能性をもたらした。それは投機的価値ではなく、デジタル作品の真正性保証という概念的革新である。無限に複製可能なデジタルデータに、ブロックチェーンという分散型技術によって「オリジナル」という逆説的な概念を付与する。これは美術史における重要な転換点となりうる。
しかし同時に、NFT市場の投機的熱狂は、作品の本質的価値を覆い隠す危険もはらんでいた。ホワイトリスト、ユーティリティ、ロードマップという仕組みは、コミュニティ形成には有効だが、純粋な造形的価値を二次的なものにしてしまう。
私がSMT48で目指したのは、NFTの技術的・概念的可能性を活用しながら、投機的側面から距離を置き、純粋にデジタルアートとしての強度で勝負することだった。美術大学を出ていない、画廊との繋がりもない、美術界の人脈もない。私は完全なアウトサイダーとして、この挑戦をしている。
しかし、このポジションには独特の視点がある。既存の美術教育や業界の慣習に縛られないからこそ、NFTという新しい領域から始め、スマホの親指だけで制作するという素朴な方法を自然に選択できた。美術館を目指さない一般的な日本人として、そのまま作品にぶつけた。
この生活者としての率直な感覚が、アカデミックな理論より先に来た。美術界の外から内へ向かうこの道筋も、インターネット以降の時代における、一つの可能な経路を示しているのかもしれない。
第九章:美術館なき芸術—デジタル純粋主義の宣言
SMT48の真の革新性は、その存在様式にある。
この作品は美術館を必要としない。いや、より正確に言えば、美術館という従来の権威システムから自由である。白い壁も、適切な照明も、温度管理された空間も、学芸員の解説も、すべて不要だ。なぜなら、SMT48が求めるのは、あなたのスクリーンという最も親密な展示空間だけだからだ。
作品を「所有する」とは、物理的な物を手に入れることではない。それは、デジタル空間におけるアクセス権を得ることである。作品は、サーバーとあなたのデバイスの間、0と1の信号として行き来する瞬間にのみ顕現する。SMT48は、インターネットという無限の空間で、ダイレクトに鑑賞者と出会う。仲介者なしに、装飾なしに、ただ1024個のピクセルとして。
これは美術館やギャラリーという従来の権威システムを迂回し、新たな流通形態を創出する試みである。この徹底したデジタル純粋主義は、21世紀の新しい存在論を提示する。物質に依存しない芸術。場所を持たない芸術。しかし同時に、ここ―このピクセルが光る瞬間―にしか存在しない芸術。
32×32ピクセルという解像度も、この存在様式と不可分である。高解像度化すれば、それはもはやSMT48ではない。物理的にプリントすれば、ピクセルの境界がぼやける。唯一、デジタルスクリーン上で、1ピクセルが1ピクセルとして表示される時にのみ、作品は真の姿を現す。
モナ・リザはルーヴルに行かなければ見られない。しかしSMT48は、あなたが今いるその場所で、完全な形で体験できる。これは民主化を超えた、芸術の遍在化である。同時に、これは新しい希少性でもある―物理的には複製無限、しかしデジタル証明書によって真正性が保証される、21世紀の逆説。
あなたが今、この画面で見ているものが、SMT48のすべてである。他には何もない。これ以上でも、これ以下でもない。
第十章:普遍性への到達
SMT48は、特定の文化に閉じた作品ではない。なぜなら、それは人類の普遍的な営みを扱っているからだ。
ピクセルアートは世界共通の視覚言語である。8ビット世代は世界中に存在し、この美学を共有している。一方、性は人類最も普遍的な行為である。この二つの普遍性の交差点に、SMT48は位置している。
さらに重要なのは、この作品をSEXとして認識できるのは、人間として生まれてきた私たち以外にいないという事実である。AIも動物も、これを性行為として理解することはできない。この認識能力こそが、人間性の最も普遍的な証明である。二つの身体が絡み合う形を見て、そこに愛と欲望を読み取ることができるのは、人間だけが持つ特権的な能力なのだ。
海外の鑑賞者にとって、日本のセックスレス問題は他国の状況かもしれない。しかし、デジタル化による身体性の喪失、仮想と現実の乖離、伝統文化の断絶は、程度の差こそあれ、全世界が直面している問題である。日本は、これらの問題が最も先鋭的に現れている実験場なのだ。文化的距離があるからこそ、作品の形式的な強度が試される。日本的文脈を知らなくても、1024個のピクセルが持つ視覚的インパクトは、直接的に鑑賞者に訴えかける。
春画や四十八手という日本固有の要素も、実は普遍性への入口である。インドのカーマスートラ、中国の房中術、西洋のアルス・アマトリア。すべての文化が、性を体系化し、芸術化してきた。SMT48は、この人類共通の衝動の、21世紀的な表現である。
タイトルを英語にしたのは、排他性ではなく包摂性のためだ。「SAMURAI」は、もはや日本だけのものではない。それは世界が共有する文化的アイコンとなった。この共有財産としての侍と、人類共通の営みである性を結びつけることで、文化の境界を超える作品を目指した。
第十一章:笑いと崇高さの統一
作品を見た人々の反応は興味深い二極化を示した。爆笑する人と、奇妙な崇高さを感じる人。笑いは、生命の証である。性を笑うことができるのは、性を恐れていないからだ。春画が「笑い絵」と呼ばれたのは、この健全な精神の表れである。SMT48の滑稽さ―アクロバティックな体位と最小限の顔―は、意図的に設計された笑いの装置である。
しかし同時に、作品には深い崇高さがある。1024個のピクセルに還元された性交は、具体性を超えて抽象性を獲得する。それは個別の行為ではなく、生命の根源的な営み、存在の二重性、他者との合一への普遍的欲求を表現する。
この笑いと崇高さの共存こそ、日本文化の真髄である。能と狂言、真面目と洒落、聖と俗。対立するものを対立のまま包含する「両義性の文化」。SMT48は、この伝統を現代に継承する。
第十二章:身体の民主化
SMT48における身体は、あらゆる属性から解放されている。32×32の解像度では、美醜、老若、体型の区別は不可能である。残るのは、純粋な「身体」という事実のみ。これは、現代のポルノグラフィーやSNSが推進する身体の階層化、理想化に対する静かな抵抗である。
最大3ピクセルの顔は、個人を消去すると同時に、すべての人を包含する。それは私であり、あなたであり、誰でもあり、誰でもない。この究極の匿名性は、究極の普遍性でもある。
しかし同時に、春画の伝統的な暖色の肌表現の選択、SAMURAIという名前、四十八手という体系は、これらの身体に文化的な位置を与える。それは明確に日本的な文脈から生まれた作品でありながら、ピクセルという極限の抽象化によって、特定の個人や身体的特徴から切り離される。
この二重性―文化的特殊性と人類的普遍性―は矛盾ではない。春画もまた、日本固有の美学で描かれながら、人類共通の営みを表現した。侍も、日本の象徴でありながら世界の共有財産となった。SMT48の身体は、この伝統を21世紀的な形で継承する。
48の体位は、身体の可能性の民主的な探求である。特定の身体能力を要求せず、理想的なプロポーションを前提としない。それは、あらゆる身体が持つ潜在的な可能性の視覚化であり、同時に日本が生み出した「型」の文化の現代的表現である。
第十三章:矛盾の美学
SMT48は、矛盾を解決しない。むしろ、矛盾を矛盾のまま提示することに美学的価値を見出す。
- 伝統的(春画)でありながら革新的(ピクセルアート)
- 日本的(四十八手)でありながら普遍的(人類共通の営み)
- エロティック(性交)でありながらコミカル(最大3ピクセルの顔)
- 具体的(体位)でありながら抽象的(32×32の還元)
- アナログ的(手作業)でありながらデジタル的(ピクセル)
- 真面目(文化批評)でありながら不真面目(ユーモア)
これらの矛盾は、現代の複雑な現実を反映している。単純な二元論では捉えられない、多層的で流動的な世界。SMT48は、この複雑性を複雑なまま表現する。
第十四章:未来への遺産
SMT48は、何を未来に残すのか。それは、2020年代前半の日本と世界の性文化の断面である。セックスレスとポルノ過剰、リアルとバーチャル、伝統と革新の間で揺れ動く時代の肖像。
それは、デジタルアートの可能性の証明でもある。NFTブームの喧騒を超えて、純粋な造形力で勝負した日本人のデジタルネイティブ作品が、現代アートとして成立することの実例。
そして何より、それは創造性の種子である。48の型は、完成された体系として存在する。これらの型が、未来においてどのように解釈され、引用され、変形されるかは分からない。しかし、型として確立されたものは、時代を超えて生き続ける。
制作から4年という時間を経て、作品は熟成した。NFTとして生まれた作品が、時間という濾過装置を通過することで、その本質的な価値が明確になった。輪郭の試行錯誤、目を休めての見直し、幾度もの修正―これらの制作時の記憶と、その後の4年間の省察が作品に重層的な意味を与える。即座に消費されるデジタルコンテンツとは異なり、SMT48は時間をかけて自らの立ち位置を見出した。それは、一瞬で生成されるAI画像とは対極にある、人間的な時間の証である。
終章:1024個の問いかけ、そして戦後日本への問い
SMT48は、1024個のピクセルで構成された問いかけである。
いや、より正確に言えば、1024個のピクセルと、この数万字のステートメントで構成された問いかけである。
我々の祖先が持っていた性への創造的な精神は、本当に消えたのか。それとも、最大3ピクセルの顔の下で、ひっそりと息づいているのか。
激しく絡み合う身体と最小限の顔。この対比は、現代日本の自画像かもしれない。表面的には控えめでありながら、内面では激しく求めている。社会的には静かでありながら、仮想空間では奔放である。
世界という舞台を通じて、我々は自己を再発見する。それは敗北ではなく、戦略である。春画が大英博物館で称賛され、ピクセルアートが現代美術として評価される。この逆説的な状況こそが、新たな創造の起点となる。
48の身体は問い続ける。なぜ江戸時代の日本人は性を笑い、楽しみ、芸術にできたのに、現代の我々にはそれが難しいのか。なぜ春画展は外国で成功した後も、日本国内では長らく美術館での開催が困難だったのか。なぜ我々は、自らの文化的遺産を、外国の評価を通じて再認識するのか。
私は、スマホの小さな画面で、親指一本で、何度も輪郭を見直しながら48体を完成させた。疲れ果てて仮眠し、目覚めてまた制作した。この執念は、失われた創造的精神を呼び覚ます儀式のようなものだった。
SMT48が世界で評価される時、人々はこう問うだろう。「なぜ私たちは、最大3ピクセルの顔の性行為に惹かれるのか」。この問いが、戦後失われた日本人らしさ―創造的で、遊び心があり、性を含めたあらゆる人間的営みを芸術に昇華する精神―を思い出す契機となることを願う。
「戦後」という言葉をここで使うのは、意図的である。それは単なる時代区分ではなく、日本が自らの文化的アイデンティティと向き合い続けてきた長い旅路の象徴として。
最大3ピクセルの顔は、永遠に簡潔なまま、すべてを見つめ続ける。しかし身体は違う。身体は動き続ける。はみ出し、絡み合い、新しい形を探し続ける。この身体の生命力こそが、希望かもしれない。
48の技、最大3ピクセルの顔、1024個の正方形。この数字の組み合わせが、21世紀の日本から世界への贈り物となり、そしてブーメランのように、日本自身への問いかけとして戻ってくることを願って。
SMT48は、世界を笑わせ、考えさせ、そして最終的に、我々自身を映し出す鏡となる。
補遺1:技術的詳細
制作環境
- アプリケーション:8bit Painter(iOS)
- デバイス:iPhone
- 制作期間:2021年11月〜2025年10月
- 作品制作:2021年11月〜2022年1月
- 入力方法:親指による直接タップ
- 主要工程:輪郭描画、目の配置、口の追加、塗りつぶし
- ステートメント執筆:2025年10月
色彩設計
基本となる色は6色:黒の輪郭、春画の伝統的な暖色系の肌色(男性はやや濃い暖色、女性はやや明るい暖色)、赤(口)、桜色(女性の乳首)、水色(男性の月代)。
しかし伝統的な四十八手の中には、小道具を必然的に要求する体位がある。碁盤責め、縄がらみ、そして岩に腰かける体位。これらを表現するため、追加の色を使用した:こげ茶色(碁盤)、黄土色(縄)。
岩に腰かける体位—要するに青姦である。デジタルの透明背景の中に、突如として岩が出現する。ピクセルで描かれた自然。この単純な事実が、妙な笑いを誘う。48の体位を選ぶ過程で、私はただ、屋外での性交も含めたかった。、灰色(岩)の追加はそれだけである。
特殊な色の出現
1体だけ、特殊な混合色が現れる。乳首を吸う体位では、口元が赤と桜色の中間色となる。これは技術的な必然である。口と乳首が重なる瞬間、色も混ざり合う。32×32ピクセルという制約が、思いがけず官能性を生み出した。
約40体は透明背景と基本6色で構成される。残りの数体に小道具と追加色が現れる。すべてが均質であるより、わずかな例外がある方が面白い。
背景は基本的に透明。しかし型に忠実であることは、時に純粋性を破ることを要求する。
ピクセル配置の哲学
各ピクセルの配置は、親指の一回のタップによって決定される。この直接性、即時性が作品に生命を吹き込む。修正、やり直し、試行錯誤。すべてが親指の動きに集約される。Anti-aliasingは使用しない。純粋なピクセル、純粋な輪郭。これは原理主義的な選択であり、デジタルの本質への回帰である。
補遺2:反応の考古学
作品への反応は、文化的無意識を映し出す。
日本での反応
- 「これはアートなのか?」→アートの定義への問い
- 「懐かしいファミコンみたい」→ノスタルジーの投影
- 「なぜか笑ってしまう」→抑圧されたものの回帰
- 「シンプルなのに深い」→ミニマリズムの評価
海外での反応
- "Brilliant minimalism" →形式主義的評価
- "The intersection of tradition and technology" →文化的ハイブリッドへの関心
- "Why only 3 pixels for faces? Genius!" →制約の創造性への驚き
- "This is what digital art should be" →デジタル美学の理想
この反応の差異は、単なる文化的違いではない。それは、性、身体、芸術に対する集合的無意識の違いを示している。
補遺3:展開の可能性
SMT48は、開かれた作品である。
SMT48 Animated
最小限のアニメーション。1-2フレームの永遠ループ。動いているようで動いていない、ゾンビ的な生。
SMT48 Kanji System
開発したシステムでは、好きな漢字をドットとランダムに配置し置き換える。これにより、視覚的な身体が文字の集合体へと変容する。例えば「愛」「欲」「肉」「霊」といった漢字が、位置に応じて配置され、新たな意味の層を生み出す。デジタルと文字、視覚と言語の境界を越える実験であり、身体を「読む」という新しい体験を提供する。
SMT48 Physical
爪切り、刺繍、洋服。デジタル×伝統×現代文化が生む新たな触覚性。
SMT48 VR
三次元空間での体験。ピクセルの中に入り込む没入体験。
これらの可能性は、作品の本質―型としての48体―を損なわない。むしろ、型の普遍性を証明する。
補遺4:作家の告白
2021年冬、私はNFTブームの中で、なぜか分からないまま、ドット絵でSEX、SAMURAI、春画を同時に表現する作品を作り始めた。この組み合わせに強烈に惹かれ、理由も分からず制作に没頭した。
侍と春画は日本的な要素。性の表現とドット絵という技法は普遍的。この組み合わせが、オリエンタリズムに陥ることなく、世界共通の言語となると直感的に感じていた。
最初の一体を完成させた時の興奮を今でも覚えている。32×32という極小の空間に、確かに二つの身体が絡み合っていた。それは、不可能を可能にした瞬間だった。
制作は、孤独な作業だった。深夜、スマホの画面と向き合い、親指でピクセルを置いていく。時に疲れ果て、時に興奮し、時に笑いながら。この800時間は、私にとって巡礼の時間だった。
NFT市場での反応は興味深かった。しかし、4年の時を経て、私が本当に求めていたものが明確になった。それは美術史的な評価だった。この作品が、単なるデジタルアセットではなく、21世紀の美術作品として記憶されること。
補遺5:批判への応答
「性の商品化ではないか」
SMT48は確かに作品として販売される。しかし、それは性そのものの商品化とは異なる。最大3ピクセルの顔は、ポルノ産業が依存する個人の特定や理想化を無効化する。これは、性を単なる商品から文化的対象へと昇華させる試みである。作品の商品性と、性の文化的価値の回復は矛盾しない。
「文化の盗用ではないか」
私は日本人として、日本文化を現代的に再解釈した。しかし同時に、この作品は日本を超えて、人類共通の遺産となることを目指している。文化は、共有され、変容することで生き続ける。
「真面目なアートとは言えない」
笑いと真面目さは対立しない。むしろ、最も深刻な主題こそ、ユーモアを必要とする。春画の伝統、そして現代美術の歴史が、これを証明している。
補遺6:2025年、そして未来へ
2025年、私はSMT48を現代アートの文脈に置く決断をした。これは、日本のデジタルネイティブな作品が、変換や翻訳なしに、そのまま美術作品として成立することへの挑戦である。
日本の性文化は、今、岐路に立っている。年間出生数は70万人を下回り(2023年)、婚姻数は50万組を割り込んだ。一方で、バーチャルな性的コンテンツは増殖を続ける。この乖離は、もはや社会問題を超えて、文明論的な問いとなっている。
SMT48が、この問いへの一つの応答となることを願う。それは、性を恥じることなく、かといって消費することもなく、文化として、芸術として、人間の創造性の証として提示する試みである。
48の身体は、完成された体系として存在する。型は、固定されたものではなく、解釈と変奏の可能性を内包する。型として確立されたものは、時代を超えて生き続ける。
最大3ピクセルの顔は、永遠に無表情なまま、すべてを見つめ続ける。その視線の先に、新しい性の文化、新しい身体の表現、新しい人間の可能性があることを信じて。
補遺7:グローバルアートとしての位置づけ
今回の作品では、SMT48をデジタルネイティブなまま、スマートフォン画面の中で提示する。美術館やギャラリーでの展示をしないのは妥協ではなく、作品の本来の姿である。スマホで作られ、スマホで鑑賞される循環が、21世紀の美術の新しい形を示す。
美術館の白い壁も、ギャラリーの照明も本質的には不要。必要なのは、デジタル画面と、作品を見つめる眼差しだけ。
世界中の誰もが、同じ条件で作品を体験できる。ニューヨークの美術コレクターも、東京のラッパーも、ナイロビのアーティストも、部屋でくつろいでいる夫婦も、授業中にスマホをいじっている学生も、それぞれが自らの空間で、同じ48の身体と向き合う。これは、美術の真の民主化である。
1024個のピクセル的表現が、そのまま美術史に刻まれることを目指す。物理的な大きさや素材の豪華さではなく、純粋な形と概念の力で勝負する。
補遺8:日本美術史における位置
SMT48を日本美術史に位置づけるならば、それは以下の系譜に連なる。
春画の系譜
喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川国芳から続く、性の視覚化の伝統。しかし、木版画からピクセルへというメディアの跳躍。
略画の系譜
北斎漫画に代表される、最小限の線で最大限を表現する伝統。複雑な現実を簡潔な形に還元する美学。SMT48の32×32ピクセルは、この極限の実践。
鳥獣戯画の系譜
平安時代の国宝絵巻から続く、ユーモアと様式化の伝統。人間の営みを記号的に表現し、聖俗を同居させる精神。黒い輪郭線で形を定義する手法の継承。
河鍋暁斎の系譜
幕末明治の奇想の画家から続く、真面目と滑稽、聖と俗を同居させる精神。春画も仏画も描いた暁斎の両義性は、SMT48の笑いと崇高さの共存に直結する。
琳派の系譜
俵屋宗達、尾形光琳から続く、徹底した平面性と余白の美学。遠近法を拒否し、黒い輪郭線で形を定義し、限られた色面で構成する。『風神雷神図屏風』の大胆な余白、『燕子花図屏風』の型の反復と破調。完璧な対称性を意図的に崩す琳派の精神は、SMT48の「はみ出す身体」と「凝縮する身体」の両極を包含する。
もの派の系譜
李禹煥、菅木志雄から続く、最小限の介入による最大限の効果。1024個のピクセルという最小限の要素による、最大限の表現。
スーパーフラットの系譜
村上隆が提唱した、高級芸術とサブカルチャーの境界破壊。スーパーフラットがフィギュアで大衆化したように、SMT48はスマホで持ち歩ける作品として、このステートメントと共にデジタル時代の新たな親密性を提示する。
SMT48は、これらの系譜を引き継ぎながら、21世紀のデジタル環境に適応した、最先端の新しい日本美術の形を提示する。
補遺9:世界美術史における位置
エロティック・アートの系譜
古代ギリシャの赤絵式陶器、ポンペイの壁画、インドのカジュラホ寺院彫刻、そして日本の春画。性を芸術として表現する人類普遍の伝統。SMT48はこの系譜をデジタル時代に継承。
ミニマリズムの系譜
カジミール・マレーヴィチの至上主義、ピート・モンドリアンの格子構造、ドナルド・ジャッドの還元主義。最小限の要素で最大限を表現。SMT48の1024ピクセルは、デジタル時代の究極のミニマリズム。
ポップアートとの対話
アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタインから続く、大衆文化と高級芸術の境界破壊。しかしSMT48は商業イメージの流用ではなく、デジタルネイティブな創造。キース・ヘリングの記号的人体表現との親和性。
コンセプチュアル・アートとの関係
ジョゼフ・コスースの「芸術とは何か」という問い。SMT48は「デジタル時代の身体とは何か」を問う。制約(32×32)を概念として作品化。
ネオ・エクスプレッショニズムとの距離
ゲオルク・バゼリッツ、アンゼルム・キーファーの身体性とは対極。物質的痕跡を残さない、純粋にデジタルな表現。
ストリートアートとの距離
バンクシー、バスキア、キース・ヘリングから続く、美術館の外での表現。しかしストリートアートは物理的な場所(壁、街)に依存し、特定の場所に行かなければ見られない。SMT48は場所そのものから解放され、世界中どこでも同時にアクセス可能な、真の脱中心化を実現する。
デジタル/ポスト・インターネット・アートの先駆
ラファエル・ローゼンダール、ペトラ・コルトライトらのデジタルネイティブ表現。しかしSMT48は、西洋中心ではない、アジアからの独自の提案。
NFTアート第一世代としての位置
CryptoPunks、Bored Apesとは異なる美学。コミュニティやユーティリティではなく、純粋な造形力で勝負。Beepleの毎日制作とは異なる、型の完成という東洋的アプローチ。
SMT48の独自性は、西洋美術史の文脈を理解しながら、それとは異なる価値体系―日本的な「型」の文化、両義性の美学―を提示することにある。グローバルな視覚言語(ピクセル)を用いながら、ローカルな美意識(春画、侍)を表現。この二重性が、21世紀の真にグローバルなアートの可能性を示している。
補遺10:愛についての省察
SMT48は、究極的には愛についての作品である。48の体位は、48通りの愛の形である。激しいもの、優しいもの、アクロバティックなもの、静かなもの。しかし、すべてに共通するのは、二つの身体が一つになろうとする意志である。
最大3ピクセルの顔は、愛の不可知性を表す。相手の本当の気持ちは分からない。表情を読むことはできない。しかし、身体は確かにそこにあり、触れ合っている。この確実性と不確実性の共存が、愛の本質かもしれない。
現代のデジタル化された愛―マッチングアプリ、ビデオ通話、バーチャルデート―は、愛から身体性を奪うように見える。しかしSMT48は、デジタルの中に身体性を取り戻す試みでもある。ピクセルの配置一つ一つに、身体の重みと温度を込めて。
補遺11:検閲と自由
日本の性表現は、常に検閲との戦いだった。明治以降のモザイク規制、戦後の猥褻物取締り。春画が「芸術」として認められるまでに、150年以上かかった。
SMT48は、この検閲の問題を技術的に解決する。32×32ピクセルでは、そもそも性器を描写することが不可能。これは自己検閲ではなく、メディアの特性による必然的な抽象化である。
しかし、この抽象化は、かえって想像力を解放する。見えないものを想像する自由、解釈する自由、投影する自由。最大3ピクセルの顔と32×32の身体は、無限の物語を生み出す装置となる。
検閲を回避するのではなく、検閲を無意味にする。これが、SMT48の戦略である。
補遺12:コレクターへの手紙
SMT48を所有することは、どういうことか。
NFTとしてSMT48を所有する人は、この作品の最初の理解者であり、共同制作者である。あなたのウォレットに刻まれた所有の証明は、単なる投機的資産ではない。それは、デジタルアートの新しい形態への信念の証である。
NFT所有者は、作品の「原本性」を保証する。無限に複製可能なデジタル画像に、唯一性という逆説的な価値を与える。これは美術館の認証や画廊の鑑定書とは異なる、ブロックチェーンという分散型の真正性保証である。
重要なのは、NFT所有が作品へのアクセスを制限するものではないということだ。誰もが同じ1024個のピクセルを見ることができる。しかし所有者は、その普遍的なアクセスの中で、特別な関係性を持つ。それは、寺社の仏像や絵画が誰にでも開かれていながら、寄進者が特別な精神的つながりを持ったのに似ている。
デジタル純粋主義は、NFT所有と矛盾しない。むしろ、物理的な作品を必要としないからこそ、所有の概念は純粋に概念的・精神的なものとなる。あなたが所有するのは、物質ではなく、関係性である。作品との、作者との、そして48の身体が示す人類の普遍的な営みとの関係性。
NFTホルダーは、21世紀の新しいパトロンである。美術館やギャラリーを介さず、直接作品を支援し、その存在を可能にする。この直接的な支援こそが、デジタル時代の芸術の民主化を体現している。
補遺13:静寂の技法
SMT48は、静かな作品である。音もなく、動きもなく、1024個のピクセルが静止している。この静寂は、現代のメディア環境―常に動き、音を発し、注意を要求する―への抵抗である。
静寂は、観察を要求する。じっくりと見ること、細部を発見すること、想像力を働かせること。この slow looking は、現代において稀少な体験である。
48の体位を順番に見ていく時、それは瞑想的な経験となる。各体位の微細な違い、ピクセルの配置の妙、形の発見。スワイプして次の作品へ移動する行為も、デジタル時代の新しい儀式である。
静寂の中で、作品は雄弁に語る。それは、ノイズに満ちた世界で、本質的なものを聞き取るための装置である。
最終宣言:48の可能性
SMT48は、1024個のピクセルで構成された宇宙である。各ピクセルは、可能性の最小単位である。それらが組み合わさって48の身体を形作り、無限の解釈を生む。これは、デジタル時代における新しい曼荼羅である。
私は問う:
- 愛は、何ピクセルで表現できるか?
- 身体は、どこまで抽象化できるか?
- 伝統は、どのように未来に接続できるか?
- 日本は、世界に何を提供できるか?
- 人間は、デジタルの中で人間であり続けられるか?
これらの問いに、SMT48は48通りの答えを用意している。しかし、本当の答えは、あなたの中にある。
48の身体は、永遠に絡み合い続ける。最大3ピクセルの顔は、永遠に沈黙し続ける。この永遠性の中に、瞬間的な生の輝きを見出すこと。それが、SMT48という作品の究極の目的である。
私は、親指一本で、スマホという小さな画面で、人類最古の営みを、最新の形式で表現しようとした。この矛盾に満ちた試みが、21世紀の美術として、人類の記憶に刻まれることを願って。
SAMURAI TECHNIQUES (SMT48)
2021-2025
Digital Native Art
32×32 pixels
48 works
Created with thumbs on iPhone
For the future of love
2025年10月
東京にて
本ステートメントは、SMT48についての一つの読解である。48の身体と最大3ピクセルの顔は、48×∞の物語を内包している。各人が、自らの物語を発見することを期待する。
Prepared: 2025-10-04 03:00
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